SNSは孤独な人間のためのセーフティーネットだ

Twitterの障害が話題になっている。原因については他にいくらでも詳細な記事があるからここでは語らない。私が着目したいのはこれだ。

Twitterの乗り換え先としてmisskeyなるSNSに登録する人間が殺到したらしいのだ。これを機に完全に移住を決意する人、Twitterが落ち着くまでの一時的な避難先として利用する人。人によってさまざま理由は異なってくるだろう。しかし、人はどうしてこうもSNSを求めるのだろうか。私は新しいものを覚えるのが基本的に嫌いな人間だ。というか変化を嫌うというべきか。少し前にGithubのUIが変わったが、ああいうのも慣れずにイライラしてしまうタイプの人間だ。だからTwitterがもしサービス終了したとしたら、どこにも移住せずに姿を消すだろう。Twitterは勝手知ったSNSだから使っているだけだ。しかしまあ、私ほどではないにしても、人は新しいものを始めるのには多少なりとも抵抗を覚えるだろう。イノベーター理論では新しいサービスに対する反応として5つのタイプが存在すると仮定を置いている。私は完全にレイトマジョリティだ。では、今回移住を決意した人々はどのタイプに累計されるのだろうか。と、考えてみたのだが、そもそもこのケースにイノベーター理論を当てはめること自体がナンセンスな気がしている。

ということで、今回は人々に新しいサービスへの登録を行わしめた、SNSそのものの効用について考えてみる。まず最初に思いつくのは自己顕示欲、自己承認欲求を満たすためだ。これが大半だろう。そうでなければ一銭も貰えないツイートなどする意味はない。といっても、今日はこんな語り尽くされた陳腐な話題について語りたいわけではない。今日語りたいのはもう一つの側面、孤独な人間のセーフティネットとしてのSNSだ。
孤独な人間にとって、SNSはインターネット空間における仮想的な交友関係を構築するプラットフォームになっている。一人で過ごす時間も、自分の行っていることを逐一SNSでツイートしてそれにいいねが付けば、誰かと交流しているような気持ちになる。この薄く、細く、弱々しい関係で辛うじて社会との繋がりを感じることのできている人間というのはそう少なくないと思う。もちろん働いていれば社会との繋がりは得られるが、それは別に自分個人に対して、というよりその職場のそのポジションに付いている人としての関係だ。交換可能だ。無論、SNSでのアカウントなんてものも自分以外の人間からすれば基本的に交換可能だが、少なくともアカウントは自分自身がプライベートで運用しているものであり、仕事のポジションよりはよっぽど自己を感じることができるだろう。
地域社会が崩壊し、グローバルなネームスペースに放り出された現代人は絶えず自分自身を証明する必要に迫られた。村では「田中さんのとこの倅」で通用していた人物は、今では不特定多数に対し、自分はどんな田中なのかを周りに証明しなければならなくなった。自己を証明するのに最も簡単な方法は、優越性を示すことだ。しかし、村では「力持ちの田中さん」だったのが、グローバルな空間に放り出されると、上には上がいくらでもいることを知った。力持ちという自信は喪失した。現代人の「何者かになりたい」病はこういうことなんだと思う。
そうして人々はどうしたか。SNSを始めた。現実社会では一歩外に出ればグローバルな空間が広がっている。SNSではどうか。自身のTL、あるいは所属している界隈だけに焦点を当てれば、そこには懐かしい地域社会が、村が広がっている。村の中でなら自身を証明するのはそこまで難しくない。エコーチェンバーの問題なんてものが叫ばれているが、さもありなん。人々がSNSに求めているのは村社会なのだから。時折、炎上しているツイートが流れてくるのを見る。引用RTには批判的な意見が殺到している一方で、リプ欄には同情的であったり賛同的であったり、引用RTとは真反対の反応で溢れていることがよくある。これはなぜか。ある村でのルールと、その他の村でのルールは違うからだ。炎上というか、村の内部で醸成された価値観が外部に漏れ出た、自然な反応だと捉えられる。
少し話が逸れてしまったが、SNSというのは現実社会で、グローバルな空間で孤独になった人間が、温かくて懐かしい村社会を再現し、安住するためのセーフティネットなんじゃないかと思っている。移住する、というのは新しい村を探すことだ。であれば、私のような人間は立ち退きに反対して村もろともダムに沈む頑固老人みたいな人間だろう。
ただし、その後で私が孤独に絶えきれずに移住する可能性も捨てがたい。その時はダム湖の底から浮上し、びしょびしょの体で新天地を目指すことだろう。