雑談が辛い

心に余裕がない時は雑談がただただ辛い。業務において、雑談する場面は多くある。私の仕事で言うと、例えば朝会だったり、ランチの時間だったり、その他同僚に話しかけられた時だったり。心に余裕がない時はこの時間がひたすらに辛い。特にまとまっていないのだが、なぜ雑談が辛いかについて書いてみる。

誰も興味のない会話にさも興味あるかのように振る舞う労力

雑談の内容なぞ誰も興味ない。ただただ人間関係を確かめ合い、維持するだけの極めて機械的な行為だ。ただ、これを機械的に済ませられるかというと、そうは問屋が卸さない。この場では、さも機嫌が良さそうに、さもその話題に興味があるかのように振る舞うことを求められるからだ。仕事の分類として「感情労働」というものがあると、大学生時代に某家電量販店でバイトしていた時に教えられた。まさしく雑談は感情労働の部類だ。論理的思考に費やす脳味噌の領域を使う必要はないのだが、極めて接客業的な振る舞いを求められる。これは精神に余裕がない時だととても辛い。別に会話に口を挟む必要もないのだが、その場合は少なくともニコニコして「私に害意はありませんよ=機嫌はいいですよ」とアピールすることを迫られる。これは普通に業務をこなすことよりもよっぽど厳しい。

こんなみっともないブログ記事を認めているのは、まさに今日この失敗を犯して自己嫌悪の真っ只中だからだ。私の部署では、あまり関わりがないチームのエンジニア同士でランチをセッティングするという施策を絶賛試行中だ。今日がその日で、私はまさに先述の振る舞いを求められたのだが、そんな余裕はなく、愛想笑いもほどほどに、つまらなそうな顔でグラスをカタカタ揺らしたり、お手拭きを畳んだりを繰り返していたのだ。よく喋る後輩がひっきりなしに話題を提供していたからその場は特に滞りなく進んだのだが、親睦目的という意味では私は全くその場の人々と仲良くはなれなかった。帰りのエレベーターでも話しかけられないように来てもいないSlackの画面を仏頂面で眺めていた。
もちろんこんな振る舞いは私の望むところではない。本当は通り一遍、普通と思われる振る舞いをしたい。しかし、こればかりは上から勝手にセッティングされた予定でどうしようもなかったのだ。私だってこんな醜態を晒さないために色々と工夫はしている。例えば、精神的に余裕がないと分かっている時は、チームのランチの時間にわざと勉強会をセッティングしたり弁当を持ち込んだりしている。チームの朝雑談では他の人が10分くらいは持たせようとするのを、自分が司会の時はさっさと切り上げて本題に入るようにしたりもしている。ダメな自覚がある時は雑談の場に無理に参加しないことで、不機嫌であるとか思われないようにするのが私なりの解決策、もとい対症療法だ。今日はそれをする余地がなかった。
一体、こういう波のある人間はどう振る舞うのが正解なのか。会社の先輩はいつも機嫌良くニコニコしているばかりで、少なくとも表面的には精神的な波は見えない。となると私だけがこうも人に分かるくらい露骨に態度に現れてしまうのか。一体これからどうやって振る舞っていけばいいのか。全くロールモデルが存在しないままに思い悩み、避けていた酒を久々に開けて頭を抱えている。