高校生の頃、あれはどんな時間だったか覚えていないが本を読んでいた。朝のホームルーム前には朝学習という、偏差値70にも届かないせいぜい自称進学校にはありがちな時間が設けられていた。私の記憶違いかもしれないが、朝学習の時間に読書は認められていないという話をされたような記憶がなんとなくあり、私はそれを聞いてこの学校に大きく落胆をしたような覚えがある。つまり、朝読書の時間というわけではなかったはずだ。
中学生の時には朝読書の時間があった。その時は生徒の大半が(私の交友関係がある友人の大半が、と言った方が正確かもしれない)、ライトノベルを読んでいた。ライトノベルの貸し借りもよくあったし、もはや誰が誰のものを読んでいるのかも分からない状況にあった。卒業式の間近の日には、持ち主不明となっていたライトノベルを友人のバッグに勝手に詰め込んで押し付けあった記憶もある。2010年代後半、幸いにもオタク差別や偏見とは無縁の学生生活とはそういうものであったし、陰キャ陽キャなどの隔てもなくライトノベルを読んでいた。それはいい。高校時代の話である。高校生にもなるとライトノベルを読む生徒などは稀だ。しかし他の生徒がどんな本を読んでいたか中学生の時ほど覚えていないので、やはりあれは常に設けられているわけではない特殊な時間だったのかもしれない。いや、書いているうちに思い出した。確かあれは帰りのホームルームの前の空き時間で、私は手持ち無沙汰になって本を読んでいたのだ。その時に読んでいたのは確か、ホリエモンの『本音で生きる』だったように記憶している。いわゆる自己啓発本というやつだ。今思えばホリエモンの本などゴーストライターが書いているもので、たいして読む価値もなかったかもしれない。私は司馬遼太郎のファンで、高校時代はもっぱら図書室から借りてきた彼の本ばかりを読んでいたのだが、その時は珍しくそんな本を読んでいた。その時、私の前に座っていた友人が振り返って話しかけてきた。その友人は私の本を一瞥すると、「そんな本を読んでいるのか」と、少し落胆したような、軽蔑したような声色で言った。私はその時、恥ずかしい気持ちになったのを覚えている。私の母校は公立高校でほとんどの生徒が地元の公立小中出身だったが、彼は小中一貫校出身、両親も大学教授のアカデミックな家庭に育ったと聞いている。そんな彼から放たれたあの言葉には、まさに彼の育ってきた環境、形成された価値観が濃厚に反映されていた。しかし、彼はなぜ自己啓発本を軽蔑するようになり、そしてなぜ私も自分で読んでいながら彼の発言に反論せず、それどころかそれを是として恥ずかしがるような羽目になったのだろうか。
私は何も、自己啓発本の歴史だとか、売り上げの推移だとか、それらを取り巻く社会的要因などをくどくどと述べるような社会学的なことを書きたいわけではない。そんなものはネットの海や関連書を渉猟すればいくらでも手に入る。今、私は昨晩の多量飲酒による頭脳の不明瞭により午後休を取ってベッドの上に寝っ転がりながらこの駄文を書いているわけだが、今のこの状況と、あの時の出来事がどうしても重なり、抑えきれなくなったのだ。最近は種々様々な要因が重なってこうした状況になることが珍しくないのだが、例えばこんな時に自己啓発本を読んで仕事に対するモチベーションをブーストさせれば物事が良い方向に傾くのではないかとふと思うことがある。自分の力で自分を取り巻く環境をコントロールし、好転させることができると信じられれば。ただ、書いていて思うが、それは随分と創造神じみた所業だ。少しでもまともに考えてみればそんなものは夢物語であると容易に判断できる。しかし、脳のメタ認知的な部分を一旦遮断し、聖書を読む敬虔なクリスチャンのような心持ちで自己啓発本を読めば、一時的にではあっても自分にそうした力が備わっていると信じることができる。いくら付箋を貼っても赤線を引いても内容など覚えていないのだが、カンフル剤的な効用は期待できるはずだ。もっとも、私が自己啓発本を読んでいたのは当時苦境にあったわけでもなく、書店の目立つところに平積みされていたのが気になっただけであったのだが。それにしても、こうした効果が認められているとして、自己啓発本を読むことは恥ずかしい行為なのだろうか。私はいまだにこの価値観から抜け出せていない。本の貴賤など信じていないが、自己啓発本を外でカバーを付けずに堂々と読んだり、カフェで表紙を表にしたまま席を立つ自分など到底想像できない。そもそもここ数年間購入していない。あの件の影響も大きく自己啓発本を読んでいる人間を軽蔑する域にまで達した時期もあったのだが、今はそんなことは全く思っていないのにも関わらずだ。少しシミュレーションしてみるが、じゃあ仮に私があの時ライトノベルを読んでいたとしよう。彼はどう言っただろうか。私が思うに、恐らく一言一句同じ言葉を投げかけるだろう。ライトノベルも自己啓発本と同じ括りということだ。しかし、先ほど自己啓発本について話したのと同様にライトノベルにもライトノベルの効用が存在すると私は信じている。なんなら私は今もライトノベルを読んでいる。だいたい読書に出かけるときは、その時読んでいる新書や文庫本と、一冊のライトノベルを持って出かける。他の本を読んでいて文字が滑るように感じた時、あるいは堅い本を読む脳味噌の余裕がないが、ただ文字を追って読書という行為を行いたいがためにはライトノベルが最適なのだ。これは先ほど話したような自己啓発本の読書体験と重なるところがある。自己啓発本では脳のメタ認知機能を遮断する。ライトノベルはそもそも脳味噌を使わない(但し書きしておくが、これはライトノベルを下に見ているというわけではない。少なくとも私がそうした読み方をするのに最も適したジャンルがたまたまこれであっただけだ)。どちらも何かしら知的に片手落ちな行為をしている。絶えず本の内容と自身の思考、内面を反復しながら考え、脳味噌に負荷をかけ、知識や感性を磨き上げるという高度に知的で洗練された行為としての読書を理想とするのであれば、これは読書体験への侮辱と言えるだろう。彼が軽蔑したのも、私が羞恥したのも、カバーを付けてライトノベルを読んでいるのもこれによるものだ。少し話がまとまってきた。
自己啓発本やライトノベルはある種の新天地を開拓した。あるいはこれらの"低俗"とされる本の台頭によって理想化された読書観が生まれた可能性もあるが、そうしたにわとりたまご的な論争は隅に置くとして、これらのジャンルが純文学、高度な読書行為に対するカウンターカルチャー、対立的な立ち位置に存しているのは確かだ。自己啓発本は思考停止的高揚感を、ライトノベルは思考停止的浮遊感を持ち込んだ。論理的、有意味的、実利的、正当、純粋、権威etc. を尻目に高揚しながら漂い、意思、意味、意図を台無しにする、現代社会に疲弊した人間のオアシス的なものをそこに含んでいるはずだ。こんなことを言うと過大評価だと言われるかもしれないが、理想化された読書行為に対するために過度な修飾をしても罰は当たらないだろう。
件の彼は自身も多分に漏れずアカデミアの世界に入り、かなりの精神的苦境にあると聞いた。彼への救いが低俗な本にあるなどとはとても思わないが、私は彼の状況を聞くにつけこんなことを思わずにはいられない。